地域の地場産業を担う飛騨の家具

古の時代から豊富な森林資源を生かした木工技術が高く評価されていた飛騨では、精巧な技術が脈々と受け継がれ、家具作りが産業の中心となりました。

高度な技術を持ち
木を知りつくす飛騨人

奈良時代、優れた木工技術を評価されていた飛騨人は、税が免除される代わりに木工技術集団として奈良の都に派遣され、日本を代表する寺社仏閣の造営に力を尽くしました。飛騨人の勤勉さと技術の高さから生まれた言葉が「飛騨の匠」です。彼らが造営に携わった興福寺や唐招提寺などの寺院は、ユネスコの世界遺産に登録されています。

脈々と受け継がれる飛騨の匠の技

数百年に渡る飛騨と都との往来の間に、京の文化が飛騨へ運ばれました。江戸時代に入ると、幕府の直轄領となり江戸文化の影響もうけます。飛騨でもともとある木工技術と、京と江戸の文化の融合によって生まれたのが絢爛豪華な高山祭の屋台です。下の国とも称された山深い地で、華やかな文化が派生した理由は、豊かな森林資源と飛騨の匠が結びつけた賜物であるといえます。

近代に入り生糸の生産が盛んな明治時代では、家具は近代的産業としての道を歩み始めました。西洋の家具が実用品として普及し始めたため、飛騨の家具職人達も生産を始めます。大正時代には、当時廃棄されていたブナ材の活用が研究され、試行錯誤の結果、難易度の高い曲げ木技術が生まれ椅子の生産・販売へ進むことになります。

家具の町 飛騨高山の誕生

昭和に入り、飛騨の家具産業は、技術改革や設備投資を重ね急成長を遂げます。中でもブナを主材にロクロや曲木技術を多用した英国方式の流れをくむ製品づくりは、長期に渡って飛騨の家具デザインの本流となりました。戦後、多くの家具会社が相次いで創業し、親睦団体としての高山木工会が結成されます。その後も創業が続き、発展的に飛騨木工連合会に改組、昭和57年(1982年)には協同組合の認可を取得し、飛騨地域の地場を担うリーダー産業として確固たる地位を固めました。
家具の町として発展した飛騨では、世界品質の優秀性を世界へ向けて発信すべく、パリやロサンゼルスへも積極的に出展し、世界に向けた活動を続けています。